褒められるのはうれしいものではあるけれど……(追記あり)


地震発生以来、被害や救援活動についての報道に混じって、海外の反響が報じられています。

3つ目の朝日の記事がとりあげている米紙の反応の中には、日の丸クラスターの方々から「反日」の宣告を受けているニコラス・クリストフ氏のコラムまで含まれているではありませんか!
海外からの同じような評価が大災害時に報じられるのはもちろん今回が初めてではなく、阪神・淡路大震災の際には私も賞賛された被災者の一人だったわけですが、この種の報道が一種の慰めとなったことは述べておかねばなりません。また、「冷静さ」「マナーの良さ」を評価されたという報道によりつくられる日本人の自己イメージが、次の災害の際にも冷静な行動を促す、というフィードバック効果が生じるとすれば、それ自体としては悪くないはなしでしょう。
他方で、2つ目の記事で紹介されているような「道徳の血」といった本質主義的なレトリック*1には注意しなければなりません。なんの悪気もない褒め言葉ではありますが、このレトリックは容易に「南京第虐殺を引き起こした日本人には残虐の血」に転化しますし(そしてその反動として「日本人が虐殺をするはずがない」を生むわけです)、日本側では「日本と違って略奪を起こした○○人には不道徳の血」といった認識を助長しかねないからです。
(さらにいえば、もし被災した方々の冷静な行動が「血」によるものなら、実のところそれは被災者の功績ではない、ということにもなってしまいます……。)


もう一つの懸念は、このような事態にあっては抱いてしかるべき感情の表出が妨げられていることが、冷静な振る舞いの(すべてではもちろんないにせよ一つの)要因になっていまいか、ということです。私はたびたび、世界でも有数の殺人発生率の低さと高い自殺率との間になんらかの関連がある可能性に言及していますが、これと軌を一にする問題です。これは野田正彰氏の問題提起に触発されて考えていることなのですが、いずれ機会があれば詳しく書いてみたいと思います。


追記:北守さんが(欧米における)この種の報道の「オリエンタリズム」を指摘されてます。この指摘の妥当性は、「感情を表に出さない日本人」「統制された行動をとる日本人」といったステレオタイプが文脈によっては「何を考えているのかわからない不気味さ」「画一性」といったネガティヴ・イメージを喚起してきた、ということを想起すれば明白でしょう。

*1:クリストフ氏のコラムにもその気配はあります。