「三池を抱きしめる女たち」「消えたヤマの告発」より


前回のエントリでとりあげた2つの番組から、非常に印象に残った発言を引用。
後に集団訴訟となる裁判は、当初1972年に夫婦2組4人による提訴ではじまった。事故にあった夫だけでなく妻も原告となった理由を松尾螵虹さんはこう語っている。

あたしたちは主人の陰の人間じゃない。自分が精一杯生きた証をどっかで残しとかないと。いつも主人の陰で何もできなくて暮らしてきたような人格じゃない。自分の人格も認めてもらわんと。軽症患者の家族がどれだけ苦しんだか、ってのは表面に出ないからですね、わたし原告になります、って。
(「三池を抱きしめる女たち」)

87年にほとんどの原告は 「高齢化が進む中、苦渋の決断」で会社と和解。だが和解条項に会社の責任は明記されず。清水栄子さん夫婦と31人の原告は訴訟を継続することを選ぶ。

私たちは和解をはねていく、と。そんな時に、いっつも出てきたのはお父さんのがんばり。病院で頑張ってるからね、私も頑張らにゃ、と思って。納得できなことはね、納得できないと。
(「消えたヤマの告発」)

スクラム組んで戦うという姿勢がないとね、潰されてしまうんだなってことを、身を以て感じてきましたね、この50年の中でね。だから今こそみんなが声を出すべきじゃないかなぁ、って私は思いますけどね。
(「三池を抱きしめる女たち」)

93年に原告勝訴の判決が下るが、妻への慰謝料は認められず、会社も謝罪の言葉はなし。松尾螵虹さんは地方紙の死亡記事欄を毎日チェックし、半世紀近く前につくった「家族の会」の名簿に会員の消息を書き込み続けている。清水栄子さんはいまも機関誌を編集し支援者に発送する作業を続けている。
この事故の被害者、被害者家族の人生の個別性を無視してはならないことは重々承知しつつ、それでも他の公害訴訟や労災訴訟、戦後補償裁判などとの共通性を感じずにはいられなかった。清水栄子さんは言う。「やっぱり、患者がいなくなるのを向こう〔=厚生労働省〕は待っとうとじゃないかね」 同じような言葉を何度聞いただろうか。