「親学」的なものは右派の世界観の現れ


大阪市の「家庭教育支援条例」案はその背景にある疑似科学的な主張が問題視されたため、そのままの形で成立することはないでしょう。しかしながら、これは「維新の市議団が運悪く疑似科学的な主張にひっかかってしまった」ために起きた問題ではありません。「親学」が右派の世界観、人間観によくマッチする主張だからこそ、その科学的な妥当性(のなさ)なんて気にせずに飛びついたわけです。当ブログの読者の方は、産經新聞が以前に(04年と06年)インテリジェント・デザイン説への提灯記事を載せたことをご記憶だと思いますが、これも統一教会への義理立て(だけ)というわけではなく、進化論=唯物論=道徳教育に悪い、という右派の発想にID説がマッチするからでもあります。科学が右派の世界観、人間観を支持してくれない領域においては、右派はどれだけ批判されても疑似科学に支持を求め続けるでしょう(南京事件否定論などもその例)。
ところで、かつての社会生物学論争を想起すれば明らかなように、一般に「氏か育ちか nature or nurture」問題においては右派が生得性の強調を好み、左派は環境の強調を好む傾向があります。教育という文脈では三浦朱門の「出来ん者は出来んままで結構」発言や江崎玲於奈の「いずれは就学時に遺伝子検査を行い……」発言(とそれに対する反響)などが例証となるでしょう。生得性の強調は右派が持ちがちな本質主義的民族観にもよくマッチしますし。「政治的DNA」とか言ってた右派政治家もいましたよね。
しかし右派が、発達障害については、「生得的なもの」とする定説ではなく「育て方のせい」とする説に飛びつこうとしているのはなぜか? といえば、この場合「育ち」「環境」といってもひたすら親のことだけが考えられており、左派が強調したがるような意味での「環境」が重視されているわけではなく、その限りで右派の世界観とは整合的なのです。