『無実の自白 〜えん罪はなぜ起きたのか〜』


昨晩、一昨晩に放映されたドキュメンタリーを視聴。

当ブログでこれまでとりあげてきた「虚偽自白」についての科学的知見に照らせばこれといって目新しい内容ではなかったが、逆に言えば虚偽自白という問題がもつ一般性を改めて確認することができた。特に、死刑の存在が虚偽自白の強い誘因になることや、またポリグラフの結果のように被疑者の心理に大きな影響を与えるデータが捜査機関に独占され恣意的に利用される(しばしば被疑者に嘘の結果が告げられたりする)ことの危険性を強く印象づけられる。
他方で、この番組でとりあげられたケースは、被疑者のDNAと犯行現場に残されたDNAとの不一致という鑑定結果が出るたびに警察がさらなる「共犯者」の供述を強要した結果、なんと7人もの「共犯者」が芋づる式に逮捕されたあげく、単独犯として犯行を自白する者が現われると7+1人での共犯というシナリオを警察がひねり出したという、あまりにもお粗末な捜査の結果であった。さらには、強引な取調べを行なった刑事が、処遇を甘くすることとひきかえに金をもらったという容疑で逮捕された(のち、恐喝と偽証で実刑判決)というおまけまでつく。これらの事情は、捜査機関が真摯に捜査に打ち込めば冤罪の発生はある程度防ぐことができるのではないか? という印象を視聴者に与えかねない。もちろん捜査官の個人的な腐敗や捜査機関の組織的保身が冤罪を生む要因足りうることは確かだが、他方で犯罪を憎み犯人を摘発しようとする真摯な取り組みが冤罪の要因となってしまうこともあること−−真犯人を自白に追い込む効果的な尋問手法は、同時に無実の人間にも自白させてしまうだけの効果を持つこと−−は指摘しておきたい。


さて、“冤罪か、それとも真犯人の野放しか?”といえば、集団性暴力を理由として無期減停学処分を受けた大学生が処分は不当として大学を訴えた民事訴訟で大学敗訴の判決が先日下された件が思い当たる。

この判決を報じた記事へのはてブ↑では、判決が“示談=合意のしるし”と認定したと早合点する人びとと“示談=(被疑者に)身に覚えがあるしるし”と考える人びとが共存するという、奇怪な事態になっている。前者について言えば、“性暴力の被害者はしばしば刑事告発を断念し示談に応じるよう強いられる”という認識については完全に同意できるものの、一般に「示談が成立している」という事態から人間が持つ予断としては「(被疑者に)身に覚えがあるからだろう」というものの方が蓋然性が高いだろう。仮に裁判官が旧弊な女性観の持ち主ぞろいであったとしても、そうした人間ほど「性暴力の被害者はあくまで正義の実現を望むべき」と考えるよりは「事を裁判沙汰にせずにすますべき」と考える傾向が強いであろうから、“示談=合意のしるし”という発想をするだろうか? という疑問がある。さらに、そもそも(すでに指摘があるように)「示談」と「合意」を併記しているのはあくまで報道であって、判決が“示談=合意のしるし”と認定したと考えるべき根拠は現時点ではない。では“示談=(被疑者に)身に覚えがあるしるし”説の方はどうか? この件はなにぶん被疑者が複数、しかも6人という多人数であったから、「明確な同意があった」という認定に強い抵抗を覚えることそれ自体は無理も無いことだと思う。しかし虚偽自白についての研究は、死刑や長期の懲役刑が予測される事例ですら無実の人間が自白してしまうことが現にあることを示している。だとすれば、一般論として無実の人間が示談に応じてしまうことはより頻繁に生じていても不思議ではないと考えるべきであろう。特に性犯罪のように、一方では犠牲者非難が生じやすく被害者にとって刑事訴訟・民事訴訟を闘い抜く負担が極めて大きく、他方で被疑者にとっても“破廉恥罪”であるがゆえに(被害者のプロフィールにもよるものの)強い社会的非難を浴びる可能性がある事件の場合、示談が成立しているという事実のみから事件の“真相”について推論できることは殆どない、と考えるべきではないだろうか。
現時点で入手可能な情報からの私見としては、この判決については裁判所の判断を非難する前にまず大学側が無期限停学処分の根拠をきちんと固めることができていたのか? が問われるべきではないか、と思う。この判決はあくまで処分を受けた男子大学生と大学の間の民事訴訟であるから、大学側が「無期限停学」というかなり強い処分を支えるに足る根拠をろくに提出できなかったのだとすれば、仮に一人一人の裁判官が「常識で考えて、合意があったわけないだろ」と内心では思っていたとしても処分無効という判決を下さざるを得ないからだ(もちろん、実は大学側が処分の根拠を十分説得的に主張していたというのが真相なら、裁判官の判断が問題視されるべきであるが)。そして、仮に大学の調査が拙速という誹りを免れないものであったのだとするならば、「迅速な処分」を求める世論にもまた責任の一端はあるということになる。もちろん、この種の疑惑が持ち上がった際に世論が大学にいい加減な決着を許さぬよう圧力をかけることは必要ではある。しかしその圧力は、十分な調査に必要な時間を大学に許すものでなくてもならない。足利事件においても、捜査陣にかけられたプレッシャーが強引な捜査の大きな要因であったことは明らかにされている。もしこの事件が“冤罪”ではなかった場合、大学が世論のプレッシャーに負け、かつ被疑者学生たちも世論のプレッシャーのせいで処分に異議は唱えまいとタカをくくってしまったせいで、かえって被害者にとっては残酷な判決が下ってしまったと考える余地は十分あるのではないか。