抽象的な議論について

旧本館に設置している掲示板で情報提供をいただいた件。
http://d.hatena.ne.jp/uedaryo/20081224/1230117294
http://coleopteran.seesaa.net/article/111034669.html
南京大虐殺についての宮台真司の認識については以前に取り上げたことがあるので、ここでは繰り返しません。宮台が「師匠」と呼ぶ小室直樹(およびそのフォロワー)の論法を通じて、抽象度の高い議論であっても事実を軽視してはならないとはどのような意味においてなのか、をみておきたいと思います。旧本館でもとりあげたことがあるのですが、愛着のある題材でもありますので。
あらかじめエクスキューズしておくと、私が受けた大学教育は人文系の、それも実証的でなく理論的な分野のそれですので、抽象度の高い理論・議論の意義は人一倍認めているつもりです。


先日、旧本館にこういうコメントがつきました。

伝聞法則すら知らないで何を言ってみても…。それこそ専門外の分野でいきがってるだけだね。
あらら | 12.23.08 - 4:58 pm
(http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C646496243/E735228537/index.html)

と、これだけではなんのことやら分からないという方も多いでしょうから、まずは背景説明をば。ここで問題になっているのはロッキード事件丸紅ルートの裁判です。一審で田中角栄を含む全被告に有罪判決が下った後、『文藝春秋』や『諸君!』などの月刊誌が角栄擁護・判決批判のキャンペーンをはりました。その尖兵をつとめたのが他ならぬ渡部昇一センセです。他にも山本七平小室直樹、小堀圭一郎といったおなじみの面々が登場します。これに対して再反論の論陣をはった*1のが立花隆です。「知の巨人」とか言われ出してから悪い評判の多い立花ですが、この再反論をまとめた『ロッキード裁判批判を斬る』((1)〜(3)、朝日文庫)は立花の最高傑作と評するひともいますね。
さて、裁判においても、一審判決後の論争においても争点となったことの一つに、ロッキード社のコーチャン副社長*2らに対する「嘱託訊問」、およびその調書の証拠採用の問題があります。当時はアメリカにいる贈賄容疑者の身柄を引き渡してもらうことができませんでしたので、検察(特捜部)は刑事訴訟法226条、第228条、第265条にもとづきアメリカの裁判所にコーチャンらへの証人訊問を依頼しました(当時のアメリカには外国の公務員に対する贈賄を取り締まる法律がなかったので、コーチャンらがアメリカで刑事訴追されることはありませんでした)。この証人訊問の調書が「嘱託訊問調書」と呼ばれ、公判で検察側は刑事訴訟法第321条にもとづきこの調書の証拠採用を申請しました。弁護側が激しく抵抗したものの、最終的にこの申請は認められることになります。
裁判論争において問題になったのは、第一にこの調書がコーチャンらに「刑事免責」を与えたうえで行なわれた証人訊問の調書だ、ということでした。合衆国憲法修正第5条(日本国憲法なら第38条1項)は自己に不利な供述を強制することを禁じています。言い換えれば、裁判所に召喚されても自分の犯罪行為(アメリカでは訴追されないとはいえ、仕事で日本に来れば逮捕・訴追される可能性があるわけです)については証言を拒むことができる。実際にコーチャンらは当初証言を拒否したので、日本の検察は「起訴便宜主義」(刑事訴訟法248条)を根拠に実質的な刑事免責を与えることを決断します*3アメリカと違って日本では刑事免責制度が確立していませんから、そのようにして行なわれた証人訊問の調書を証拠採用してよいのか、という論争が起きたのです*4
第二点は、コーチャンらがロッキード裁判の公判には証人として出廷せず、嘱託訊問調書が証拠として採用されたことから発生した論点です。すなわち、この調書の証拠採用は弁護側の反対訊問を経ない証言を証拠として採用することにより、日本国憲法第37条2項(「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ(…)る権利を有する」)に違反するのではないか、というものです。先に引用したコメントにある「伝聞法則」とは、刑事訴訟法第320条の「公判期日における供述に代えて書面を証拠とし、又は公判期日外における他の者の供述を内容とする供述を証拠とすることはできない」という規定を指します。要するに、証人は公判に出廷させてそこで証言させろ、そして弁護人による反対訊問に晒すことによって証言を吟味せよ、ということです。渡部昇一センセなどは、ロッキード裁判においては「最重要証人」への反対訊問が封じられた、これは「東京裁判以上の暗黒裁判」だ! とぶち挙げたのです。渡部センセが普段東京裁判についてどう言っているかを考えれば、事情を知らない人はよほどひどい裁判だったのだろう、と思うことでしょう。そして小室直樹センセイもまた、「近代的な裁判」の原理原則に照らせばロッキード裁判は前近代的な「自白裁判」だ、と批判したのです。

 根本の問題は、憲法第三七条第二項(…)という最も基本的な権利について、弁護人の主張にも裁判所の論旨の中にもまったく触れられていないことである。
 何と、角栄は、反対尋問をする権利を否定されたままで、有罪の判決をうけたのであった。憲法に明記された最も基本的な権利を裁判所は白昼堂々としてこれを無視し、弁護人もあまり重視しない。(…)
http://homepage.mac.com/biogon_21/www/archive/misc/refute03.html

旧本館の「ロッキード裁判」カテゴリに属する古いエントリをご覧いただけば、小室直樹の読者が同じようなコメントを延々としているのがご覧になれます。


前置きが長くなりましたが、まずは上記の第二点目について、です。「憲法第三七条第二項」が非常に重要な被告人の権利を規定したものである、というのはその通りです。そしてこの権利を具体的に保障するために刑事訴訟法第320条が重要である、というのもその通りです。その限りで、小室直樹の「抽象的」な議論は正しいのです。問題は、この「抽象的」な議論が原理原則に対する例外を無視していること、そして裁判の実態(すなわち「事実」)を無視していること、です。実は上で引用した刑訴法320条は「第321条乃至第328条に規定する場合を除いては」という文言で始まっています。すなわち、「伝聞法則」は例外なき原則ではなく、あらかじめ例外規定が認められた相対的な原則なのです。だからこそ検察は刑訴法321条に基づいてこの調書の証拠申請を行なったのです。したがって、刑訴法321条それ自体が違憲であると主張する気があるのでもない限り*5、議論は“果たしてこの調書は刑訴法321条の要件を満たしているか?”という具体的な水準で立てられねばならなかったのです。また、「憲法第三七条第二項(…)という最も基本的な権利について、弁護人の主張にも裁判所の論旨の中にもまったく触れられていない」というのは事実に反します。検察と弁護側は1年近くもこの調書の証拠採用をめぐって争ったのであって、当然憲法37条も問題になっています。ただ、文字通りに「憲法第三七条第二項」という文言が使われることがあまりなかった(法律家にとってはこの条文が問題になっていることは自明だったため)小室直樹たちが見落としたに過ぎません。さらに「角栄は、反対尋問をする権利を否定されたまま」というのも事実に反します。そもそも刑訴法321条〜328条は反対尋問を経ない証言の証拠採用について規定したものですから、別に「反対尋問をする権利」一般が侵害されたわけではないのです。また、嘱託尋問調書の証拠採用が決まった段階で、弁護側はコーチャンらへの新規の嘱託尋問を申請するつもりだ、と宣言しました。これによって公判での反対尋問に代えよう、というわけです。しかしこの宣言は実行されませんでした。厳密に言えば、それから3年近くたった結審間近の時期に蒸し返してきたのですが、露骨な引き延ばし策とみられたのでしょう、裁判所によって却下されました。証人尋問の必要性を具体的に説明できなかったのですから、当然の訴訟指揮に過ぎません。
小室直樹らが無視している事実はまだあります。そもそも、コーチャンらロッキード社の人間は、田中角栄にもその秘書の榎本にも直接接触してはいません。田中側と接触したのは丸紅側の被告たちです。ですから、コーチャンらは田中が請託を受けたこと、および田中側に現金が渡ったことについては、単に丸紅側からそう聞かされていたに過ぎません。したがって、丸紅側の被告を有罪にするうえではコーチャンらの証言が意味を持つとは言えても、田中の容疑事実にとってコーチャンらの証言は語の普通の意味での「伝聞」に過ぎないのです。でも、小室らが無視している事実はまだあるのです。田中をのぞく丸紅ルートの被告たちは捜査段階で全面的に自供しており、その調書が証拠採用されています。丸紅側の被告は、程度は異なりますが、公判でも全面否認はしていません。特に大久保被告*6は公判でも容疑事実をほぼ全面的に認めているんですよね。「黒いピーナッツ」として有名になった領収証(丸紅がロ社に対して出したもの)もあります。これまた流行語になった「蜂の一刺し」証言*7もありました。田中を有罪にするには、コーチャンらの証言など必要なかったのです。渡部センセの「最重要証人」なんて的外れもいいところです。ちなみに、立花隆に「最重要証人とはどういう証人のことか?」と問いつめられた渡部センセは、裁判所がその証言を証拠として採用した証人のことだ、という珍回答をして恥の上塗りをしました。
小室直樹渡部昇一らの誤りを皮肉なしかたで証明する事実があります。田中自身は死亡により公訴棄却となったのですが、最高裁まで争った二人の被告も結局有罪が確定しました。ところが、この最高裁判決は嘱託尋問調書の証拠採用に関してはそれを斥けたのです。にもかかわらず有罪判決は維持されたのですから、コーチャンらの証言は有罪判決にとって不可欠な証拠ではなかった(と、立花隆も当初から主張していました)わけです。
なお、ロッキード裁判批判派の残党はこの最高裁判決についても嘘をつきまくってます。最高裁が嘱託尋問を「違法捜査」だと認めた、というのです。しかし実際には、最高裁判決は「我が国の刑訴法は、刑事免責の制度を採用しておらず、刑事免責を付与して獲得された供述を事実認定の証拠とすることを許容していないものと解すべきである以上、本件嘱託証人尋問調書については、その証拠能力を否定すべきものと解するのが相当である」という理由で調書の証拠採用を斥けたに過ぎません。この嘱託尋問は裁判が始まる以前(というより、被告たちが逮捕される以前)に捜査のために申請されたものであって、その捜査活動としての合法性と、結果として得られた調書の証拠能力とは独立した問題なのです。被告に有利な補足意見を書いた大野判事ですら、「捜査機関が国際的犯罪の捜査資料を収集するために、アメリカ合衆国において合法として行われた強制捜査手続について、重大な違法があるものということはできない」と述べているのです。


私のようにロッキード裁判論争に思い入れのない方には退屈だったかもしれませんが、これは“たとえ抽象的な議論であってもふまえなければならない事実、ディテールはある”ということ、さらには“形式的には正しい主張であっても、事実をふまえなければ的外れな、誤った結論を導くものになってしまう”ことの好例になっていると思います。立花隆は、裁判批判派の論法を次のように批判しました。

 これ〔ロッキード裁判の裁判官。引用者〕と著しく対照的なのが、角栄裁判批判者たちの立場である。彼らは、そこにあった具体的な現実を無視して、あくまで、一般論、抽象論に固執して議論を組み立てていく。
 一般に、一般論、抽象論のほうが、個別論、具体論より論理的整合性を保った議論を構築するのが容易である。(中略)そこで、論理的整合性に目を奪われてしまうと、前者の方が正しいように思われてくるかもしれない。しかし、その正しさとは、実は頭の中の世界における正しさに過ぎず、この現実世界においては、後者の方が正しいことはいうまでもない。
(『諸君!』、1984年9月号、「ふたたび『角栄裁判批判』に反論する」、73頁)

同じことを、2ちゃんねるにかつて存在した「小室直樹」スレで指摘した名無し氏もいました。

小室の議論で嫌というか、気をつけるべきなのは、わりと常識的な論点を、「これがポイント。これさえ押さえておけばすべてがわかる。これを押さえてない議論は全部ダメ」みたいに、誇大に持ち出す点でしょう。
読者のほうは下手をすると、それで全部理解したつもりになって、事実や論点をきちんと詰めていこうとする態度を放棄してしまう。このスレのデュープロセス氏の一連の書き込みはその典型でした。「信者」と揶揄されるのも、それなりの理由があると思います。


ここで問題になってるのは、小室信者が好きそうな「原則と例外の関係」とか「原理的思考の有効性」なんて一般的な問題じゃありません。当たり前すぎる一般論を振り回して具体的な論点をないがしろにする態度を取らないこと。ロッキード事件について論じるなら判決はきちんと読んどくこと。

東浩紀宮台真司歴史認識問題にまつわる議論を批判する際に私が念頭に置いていることの一つは、こうした事情なのです。

*1:当初は『文藝春秋』で、後には筑紫哲也が編集長を務めていた『朝日ジャーナル』で。先日筑紫氏が亡くなった際、立花隆はこの時の経緯に触れていました。

*2:彼も昨年亡くなったことが報じられました。

*3:この免責を巡ってはいわゆる最高裁の「宣明書」をめぐる論争も起きたのですが、ここでは割愛します。

*4:後述するように、これはもう一つの論点とは違ってまともな争点です。

*5:しかし刑訴法321条は被告が捜査段階での自白を公判で覆した場合には必ずと言ってよいほど使われる条文ですから、321条を問題にしたいのなら別にロッキード裁判にこだわる理由はないのです。

*6:大久保利通の孫ということで当時話題になりました。すなわち、麻生現総理の親戚ということになります。

*7:田中の秘書であった榎本被告の妻が、事件発覚直後に榎本が事件への関与を認めていたと証言したもの。ただし判決では事実認定に援用されなかった。立花隆は、彼女が巻き込まれたスキャンダルを嫌ったのだろう、と推測している。