排外主義の自然化


きっかけは m_debugger 氏のエントリ「山口二郎、レイシストとして本格デビュー」に私がブクマをつけて、ブコメで「「外国人、カルト集団など、が周囲に目立つようになると、人間は不安に陥る。これらのアイデンティティに対する脅威も、生存のリスクに含まれる」という超差別言説を自ら流布」という一節を引用しておいたことである。私は『自由への問い 2 社会保障――セキュリティの構造転換へ』を読んでいないので「レイシスト」「超差別言説」という評価に直ちに同意するわけではないが、そのような批判が妥当する可能性は十分にあると考えたからである。
まず第一に、「アイデンティティに対する脅威」を言うのであれば、それをもっとも切実に感じているのは様々なマイノリティ、とりわけ存在すらなかなか認知されないような集団や、公的に攻撃の対象となっている(e.g. いまの日本でいえば朝鮮学校の生徒・保護者)集団であるはずだが、ここではそれらを差し置いて明らかにマジョリティが感じる「アイデンティティに対する脅威」がとりあげられていること。
第二に、社会のマジョリティが「言語や文化を共有できない人間」の存在によって感じるとされる「不安」は「生存のリスク」であるとする主張は、容易に「外国人の増加に脅威を感じるのは自然」「われわれの不安に対して政府が対処するのは当然」「これは排外主義ではない、不逞外国人を追放しろと言っているだけ」等々の主張の呼び水になる。で、これが早速実現したというわけ。
http://nearmetter.com/apesnotmonkeys/neon_shuffle
「切り込み隊長のようにはいかん」ひとが私に「狙いを定め」て「論理的に潰す」と宣言しているのでガクガクブルブルですw


さて、なんらかのかたちで人間に自然=本性があることを前提したとしても、わたしたちは20万年前のアフリカのサバンナに住んでいるわけではありませんし、そもそも自然=本性だって「知らないものは怖い」といった単純なものではありません。「言語や文化を共有できない人間」に取り囲まれると「不安」だというなら、わたしたちはなぜわざわざ金をかけてまで海外旅行をしたり海外留学したりするのでしょうか? どれほど単純化して考えたとしても、「知らないもの、わからないもの」は不安だけでなく好奇心や楽しみの源泉ともなるという、両義性をもっています。そのどちらが前景化されるかはなによりもマジョリティとマイノリティとがどのような関係を取り結ぶかにかかっています。その限りで「言語や文化を共有できない人間」の増加によってマジョリティが「不安」を感じるというのはぜんぜん「自然」なことではないのです。日本に住んでいる中国人や韓国人は、実際に話をしてみるか名札でも付けている場合でもなければ、すなわちただ街を眺めているだけではそれとわからないことがほとんどです。「目立つ」という点ではヨーロッパ系外国人の方が遥かに目立つはずですし、文化的な異質性もより大きいと言うことができる。しかしヨーロッパ系外国人が「不安」の源として名指しされることは他のエスニシティの外国人に比べて明らかに稀です。これが「自然」現象であるはずはありません。マジョリティが「言語や文化を共有できない人間」に感じるとされる不安を、マジョリティがマイノリティに向ける敵意と切り離して「自然」なものと見なすのは明らかな間違いです。


ところで、ここでの議論において「差別的」「レイシズム」とされているのは、「言語や文化を共有できない人間」の増加に対して不安を感じることそれ自体ではなく、そうしたマジョリティの不安を「生存のリスク」とする言説の方なのですが(言い換えれば「不安を感じること」ではなく「不安を自然と称して正当化すること」なのですが)、「切り込み隊長のようにはいかん」ひとにとってはこの区別はとても難しいことのようです。

それは、「周辺に外国人が増加したら恐怖を感じるのはヘイトクライム」とお前が主張していたから、同じ状況の別事例を提示しただけの話。
(http://twitter.com/neon_shuffle/status/40421479032168000)

話がそれてきてるけど。議論の内容は、「周囲の外人が増加してきた場合」の話だぜ。それを恐怖と感じるか感じ無いかの議論。周囲に外人が一人いる状態についてなんて議論の対象外。出なおしてこい
(http://twitter.com/neon_shuffle/status/40420428648428000)

まずは彼がこの区別を飲み込んでくれない限り、私を「論理的に潰す」のはなかなか難しいのではないかと思います。