「除斥期間」についての最高裁判決について


asahi.com 2009年4月28日 「26年後に殺害遺体、賠償4200万円確定 最高裁」(魚拓


出発点に「殺人」という不条理がある問題なのでどうしたって誰もが納得する結果はでそうになかったのでしょう。テレビでの報道を見ていると被害者遺族が時効制度について「逃げ得を許すのか」といった趣旨の発言をしていましたが、今回の最高裁判決は遺族の意図に反して、刑事上の時効まで逃げ切った同様な事件の犯人に対し「死ぬまで黙っていよう」というインセンティヴを与える可能性が高いでしょう。当該事件の場合、犯人(民事訴訟の被告)には区画整理事業のため犯行が露見しかねないという事情があったわけですが、仮に刑事上の時効制度が存在しなかったとすれば自首ではなく更なる隠蔽工作を行ったかもしれません。それが成功していれば事件は完全に迷宮入りになっていたでしょう。しかし遺族にとって、「犯人はわかっているのに刑事罰を与えることができない」という事態と「迷宮入りになった」という事態のどちらがまだマシであるかというのも、それこそ遺族の世界観次第であって一概には言えないでしょう。またテレビ報道では犯人に「反省」を求める遺族の声が伝えられ、その声に答えるかのようにテレビカメラが被告(犯人)を追いかけていたわけですが、正直な感想としては「民事訴訟を起こしてしまった以上、“反省”は期待できないだろうな」と思いました。こういう場合に民事訴訟を起こす意味としては(1)家族を殺された苦痛に対する損害賠償、(2)与えることができなかった刑事罰に代わる実質的な罰、そして(3)被告が犯人であることの法律的な確認、という3つを考えることができますが、もし遺族にとって(3)が重要でありかつ犯人の「反省」を求めるならば賠償請求額を象徴的なものにするという選択肢もあったように思います(別にそうすべきだった、というわけではありません)。以前にも書きましたが「反省」*1というのは時間のかかる営みです。「自首」するまでの年月において犯人が「反省」へと至るような道を歩んでいたのかどうかわかりませんが、民事訴訟によって言ってみれば時計は巻き戻されてしまったわけです。遺族の視点からみれば「逆恨み」としか思えないでしょうけれども。もちろん、遺族には(1)ないし(2)を重視して訴訟を起こす権利はありますから、その権利を行使することにはなんら不当なところはありません。事実問題として、「反省」の言葉を聞くのは難しくなったろうな、と思うだけで。


ところで今回の最高裁判決が、いわゆる戦後補償裁判の一部、すなわち旧日本軍や日本政府による証拠隠滅が被害の発生や訴訟提起の遅れに実質的にかかわっているような事例に影響を及ぼすことは考えられるんでしょうかね? 大日本帝国戦争犯罪、国家犯罪については「昔のことをいつまで蒸し返すつもりだ?」とか「いつまで謝罪と賠償を要求するつもりだ」といった主張が堂々とまかり通っていることを私たちは知っているわけです。直接の当事者ではない人間がこの最高裁判決を考える際には、こうしたことも念頭においておくことも必要ではないでしょうか。

*1:これまた以前に書いたように、この言葉は安易には使いたくないのですが、他に適切な言葉が思い浮かばないので。