丸激 on 裁判員制度(2)


マル激トーク・オン・ディマンド

今回は裁判員制度の導入に「賛成」の立場をとるゲスト。「賛成」には積極的な理由と消極的な理由(反対論への反論)とがあるわけだが、まず前者については単に刑事裁判のあり方という問題ではなく、日本の民主主義というスケールで考えた時、「何も知らないで安心したい観客」としての市民を変えるための手段として、というもの。刑事政策についての国民の無知の例として、“泥棒をすれば捕まって刑務所に行く、という常識は事実に反している”、“強盗殺人犯が仮釈放になって再犯する確率は1%、という「奇跡的な成功」が知られていない”などをあげている。
この種の主張に対してはまず、予定されている裁判員制度では裁判員になる人数は非常に限られており、かつその経験を公に語って広く共有することもできない以上、「教育」効果はないのではないか? という反論が予想される。これに対しては、裁判員候補になる市民の数はさらに多いこと、そして候補者として裁判官と面談するだけでも効果があると再反論。また、市民教育という目的のために被告人を(場合によっては被害者やその遺族をも)手段化することになるのではないか? という反論を考えることもできるが、この点については誤審が増えるといったおそれは少ない、という判断のようだ。たしかに従来の刑事裁判における有罪率を考えるなら、“無実なのに有罪になる“ケースをこれ以上増やそうにもほとんど増やす余地はない、とは言えるのかもしれない。皮肉なことだが。検察審査会というかたちですでに「市民参加」の実績があることを指摘しつつ、“役割が人を変える”効果があること、裁判官との面談を経ることなどで、結果的には「優秀な市民」を選抜して裁判員にすることができるだろう、と。したがって“とんでもない判決が続出”といった事態は起きないだろう、と。被害者参加制度の影響についても、(模擬裁判では)かえって“被害者(遺族)の声に流されまい”と意識する現象もあることを指摘している。


あまり詳しく紹介しても営業妨害になるので、以下では主要な反対論についての再反論を箇条書き的に。ただし厳密に河合氏の発言をトレースしているわけではなく、自分なりに要約しつつとったメモをもとにしているので、その点ご了解いただきたい。

  • 粗い審理になるのではないか? →従来の「精密司法」は過剰だから、多少粗くなっても浮いたリソースを他にまわすメリットの方が大きい。
  • 裁判員の負担 →会社を連続して休めない、という現状がおかしい。検察審査会の例、あるいは外国の事例を参照すると経験者は満足している。ただし、結果として(余裕のある)大企業の社員ばかりが裁判員になってしまうおそれはある、と。
  • 陪審員制度と違って)量刑まで担当させるのは妥当か? →そもそも日本では「凶悪事件」が足りない。しかも7割は全面自供で、事実認定に関して重大な争いのあるような裁判は1%に過ぎないから、量刑も判断させないとやることがない。
  • 守秘義務の問題 →審理に問題があった場合には、裁判員が(ペナルティを覚悟で)勇気をもって公表すればすむはなし(ジョゼ・ボヴェの抗議行動を引き合いに出しつつ)。
  • 公判前整理手続き →これについては「試行錯誤」で進むだろう、との予測。
  • 裁判員によって量刑に差が出るのでは? これに対する再反論が非常に興味深かった。曰く、“2年で出所しようが5年で出所しようが、(元受刑者は)まったく世間に戻れていない”のだから大して問題ではない、と。多くの人は年数で軽重を考えるが、「起訴されて犯罪者とされた段階で、“日本人”としてはある意味で終わってる部分がある」、と。
  • 被害者参加制度 →これが一番問題であり課題、と。犯罪被害者(遺族)についてはとにかく知られておらず、予測もつかない。


最後の2点は非常に重要な、刑事裁判を越えた射程をもつ問題なのでもう少し補足を。
安全神話」崩壊の原因は警察や検察がダメになったことでも犯罪者が「スゴく」なったことでもなく、釈放されたり出所した人々をひきうけてきた少数の民間人(保護司を務めているような人々のことだろう)の部分が弱ってしまったことだ、と河合氏は指摘する。多くの国民は「安心してなんにもしてない」状態でかつてはうまくいっていたが、今後は無理だ、と。この認識が“国民を変えるため”という賛成論につながっているわけである。文化的背景としては「穢れた世界」と日常の世界とをきっぱりと分け、(普通の人間は)前者にはタッチしない、とするメンタリティがあるという。この点は先日の江東区バラバラ殺人事件の公判をきっかけに話題となった、“残虐な事件の実相を裁判員にどこまで知らせるのか”という問題ともつながってくる。“安心してお任せ”な国民は“そんなものは見たくない”と思うだろうが、「オブラート」に包みつつも「隠しすぎない」工夫が(メディアも含めて)必要だと河合氏は主張する。氏によれば一般に報道される殺人事件は「年間ワースト10にやっと入るレベル」のものでしかなく、本当にひどい事件のひどい部分は報じられていない、という。従来隠されてきた犯罪の実相について知らされたうえで裁判に臨むかどうかでかなり違う、と。「強盗殺人3件やって仲間も2人やってとか、そんなレベルのために死刑がある意味用意されているんだ」ということが判断の前提になる必要がある、というのである。
また裁判官と裁判員の協議が始まったとき、一般の人は、“こいつが出所してからどうなるか”という点に関心をもつだろうが、裁判官は出所後の元受刑者については、「出てから世間に帰れてないという、恐るべき社会的制裁のある国」だということも含めてほとんど知っておらず、自分が有罪判決を下した人間が更生しているかどうかといったフィードバックも受けていない、とのことで「輪切り司法」の弊害も指摘されている。
被害者参加制度については、裁判を通じて「こいつが犯人だ」と思うことで人生の立て直しを考えてきた遺族の眼前で冤罪であることが明白になってしまった、というフランスでの事例も紹介しつつ(「こんなひどい仕打ち、被害者にとってありますか?」)、“被害者のため、被害者のことを研究して出てきた制度ではなく、これを使ってなにかしようとしていると思えてならない”と厳しい評価を下している。また量刑の段階で被害者の声を聞くのは正しいと思うが、白黒をつける段階で被害者を参加させるのは公正性に問題がある(アメリカでは違憲ではないかという意見もある)、とも指摘している。
また被害者参加制度といえば“子どもを殺された親”のような事例に焦点が当てられがちだが「ほとんどの殺人事件で被害者の遺族は加害者」という「全体像」からは乖離している、と指摘したうえで、「被害者像」の問題について論じている。戦争体験者にとっては自分の子どもを失うことは「非常に当たり前の経験」だったのにその後「みんな笑って生きている、それが普通だ」と。ちょっと言葉足らずのところもあるように感じたが、要するに遺族にとって再び「笑って」生きていけるようになることが大切であるのに、被害者参加制度が固定した被害者(遺族)役割を押しつけてしまうのではないか(「被害者〔が〕なんで悲しんだり怒ったりしなきゃいけないのか?」)、という危惧のようである。たしかに被害者(遺族)参加制度がどう運用され、社会がどうそれを位置づけるかによってそうした危惧が現実のものとなる可能性はあるように思うが、他方で「笑って」生きることができるようになるためのプロセスとして、まずは被害者(遺族)の悲しみや怒りがきちんと認知されることが必要である、という考え方もできるのではないか。


その他、司法の閉鎖性を指摘しつつも変わろうとする機運があり、この点では研究者も傍観者ではないとしている(ただし、河合氏は自分が司法当局の「情報提供」の対象として選ばれたのだろうという自己認識は持っているので、聞く側もこの点は念頭においておく必要があろう)。
また裁判員制度の導入が図られた背景の一つとして、日本の警察は第二次世界大戦中の(特高を筆頭とする)経緯ゆえに国民から深い不信をもたれており、証拠収集の手段を(外国の警察と比較して)ろくにもたしてもらえていないこと、にもかかわらず「勘で連れてきた奴にゲロさせて」という手法で高い検挙率を誇ってきたこと、しかしその手法が通用しなくなり「ちゃんとした証拠」を出すしかなくなったため、「密室」で審理する必要がなくなった(裁判員でもやれる)という事情(というか当局の認識)をあげている。また戦前の日本では検察が裁判所の上位にあったという歴史が現在までひきずられてきたのを断ち切る契機になる、とも河合氏は考えているようだ。これに関連して横浜事件にも言及していたのが目を引いた。横浜事件が「戦後の事件」であることが「一番大事な点」であることを指摘し「ほんとはものすごいスキャンダル」「再審で無罪にすべき」と主張し、司法が過去の過ち(およびその過ちを徐々に克服してきたこと)について国民に「説明」する勇気が欠けていると批判している。