取調官が見抜いた虚偽自白

これまた pr3さんの同じエントリ経由です(お世話になりました)。
MSN産経ニュース 2009.3.22 「【土・日曜日に書く】誤った捜査 失われしもの 井口文彦
記者が警視庁捜査1課の元刑事から聞いたというはなし。

 ある年の暮れ、同性愛者の男性が殺害され、アリバイのない“恋人”の70代の男が重要参考人として浮かび、A氏が取り調べた。3日目の調べで男は「私がやりました」と供述。捜査本部は「一件落着」の空気に包まれた。
 だがA氏は男を帰してしまうのである。慰労のビールを用意して待っていた幹部たちから「なぜ逮捕状を請求しないのだ」と詰問され、A氏は「落ちたけど、彼はホシじゃない」と反論するが、冷ややかな視線に気分は針のムシロの上である。
 まもなく男は供述を翻し、被害者の隣に住む別の“恋人”の少年が犯人であると判明した。
 「ホシでなくても人間は『落ちる』ものなのです。調べは本当に怖い」とA氏。取調官の観察眼が、冤罪(えんざい)を食い止める防波堤でもあることを、この経験は語っている。
(…)
 「皆が『これがホシだ』と思い込んだときが実は危険なのです。流れができると、細かな疑問は置き去りにされる。それにこだわる者は疎ましがられる。しかし刑事は嫌われるのを恐れてはいけない。捜査を誤ることの方が、失うものがはるかに大きいのですから」

ここでは虚偽自白をした理由は語られていないが(真犯人をかばうため? という推定はできるが)、取調べの経験者の口から語られる「調べは本当に怖い」という言葉は重い。本来であれば犯人を逮捕したいと望む者こそがもっとも強く冤罪を避けたいという動機をもつはずなのであるが、「こいつが犯人に違いない」という思い込みは、犯人を捕まえたいという望みが強ければ強いほど「もしかして…」という疑問を封じ込めてしまう。
とはいえ、すべての捜査官に「嫌われる」ことを怖れない勇気を期待するのは現実的ではない。取調べの可視化によって身内にではなく*1三者に監視されるしくみをつくれば、あえて多数派に異を唱えることが組織防衛にもつながることになるので、常人を越えた勇気を要請する必要がなくなるというメリットもあるのではないか。

*1:身内による監督だと結局は監督者が組織の中で「嫌われる」勇気をもたねばならないことになる。