『東電OL事件 DNAが暴いた闇』

東電女子社員殺害冤罪事件が再審に至る過程でマスコミ報道をリードした読売新聞取材班による、取材過程のルポ。
「あとがき」の日付は今年の9月になっている。この時点では検察は再審で有罪主張を行う方針に固執しており、判決に至るまで時間がかかることを見越した出版だったのだろう。ご承知の通り、直後の10月には被害者女性の爪に残された付着物から、ゴビンダさんとは別人のDNAが発見され、検察が有罪主張を断念、翌11月には無罪判決が下った。取材陣の努力が決定的な形で――しかも、本書が問題として指摘している検察の証拠隠しが冤罪の重要な要因であることを示す形で――報われた瞬間を本書で描けなかったのは、さぞ悔しかったことだろうと思われる。単にゴビンダさんを有罪とする根拠が崩れただけではなく、別人の犯行を強く示唆する証拠が出て来たいま、当時の捜査関係者や裁判官らがどう考えているのか、是非追加取材してほしいところだ。
この事件に関しては、被疑者が(アジア系)外国人であるがゆえの偏見が捜査を歪めたのではないかということがよく指摘される。本書でも「ある捜査員」の言葉として「当時はゴビンダやその同居人のネパール人をかなり厳しく調べた。外国人と言えば、ウソをつくものだという考えだった」(75ページ)という認識がとりあげられている。それに加えて、その捜査員はこうも語ったという。

「俺たちはオウムや成城(世田谷一家四人殺害事件)をやってきた。それに比べればこの事件なんて、大したことはない。売春していた女性を外国人が殺した事件だから」
(同所)

(この事件にはいわゆる「自白」はありませんが、ゴビンダさんの知人らに対し捜査当局がゴビンダさんに不利な供述を強要していたことがほぼ確実であることをふまえ、「自白の研究」タグを使用しています。)


ところで「東電OL殺人事件」といえば佐野眞一氏、だろう。彼の『東電OL殺人事件』と続編の『東電OL症候群』は、冤罪事件に関心をもつ者としてはスルーするわけにいかないルポであろうから、私も文庫版を買ってはいたのだが、皆さんご承知の通りの悪評ゆえについつい読まずにすませてしまっていた。今回、読売の取材と比較するために意を決して読んでみたのだが……『週刊朝日』事件は起こるべくして起こったのではないかな、やっぱり。「闇」だの「堕落」だのといった大仰かつ空疎なことばが濫用されているのがまず目につく。ネパールでの取材部分でも所々引っかかる表現が出てくる。また、朝日の書評での最相葉月氏の次のような感想にもまったく同感である。

 再読しながら、十数年前に単行本で読んだときに自分がたびたび辟易(へきえき)したことを思い出した。事件の手がかりが得られないまま殺害現場や被害者の生い立ちを探って歩き回る場面に特に多いのだが、たんなる偶然の一致でしかない事物を事件を彩る舞台設定であったかのように因果をつなぐ、よくいえば見立て、悪くいえば牽強付会(けんきょうふかい)が頻出するのである。
 たとえば、被害者が客引きをしていた渋谷円山町をめぐって−−。戦前は花街として栄えた円山町が昭和30年代、奥飛騨のダム建設で水没した村の人々によって旅館街として生まれ変わったことを見いだし、そこに東京電力との「地下茎」のつながりを見るのは興味深い。ゲニウス・ロキ(地霊)をなだめつつ、被害者が現場で見たものに目を凝らそうとするのは取材者の常道でもあるだろう。
 だが、被害者の亡き父親の生家に向かう時に乗った富士急行と、彼女が通勤に使用していた井の頭線が同じ京王電鉄の車両を使用していたというだけで、彼女が強く慕っていた父親の故郷と円山町を結ぶ奇妙な暗合だと色めき立つのはどうだろう。もちろん想像と事実は切り分けて記されているが、話としてはおもしろいだけに、なんだかはぐらかされたような気がしてしまう。「佐野さん、ここ、ちょっと妄想入ってますよね?」と突っ込みを入れながら読むのがきっと正しい〝佐野節〟対処法なのだろう。

安っぽい因縁話のような記述の背後にある発想は、橋下市長の「父親」に対する関心とつながっているのではないだろうか。


追記:読売新聞の取材班が指摘している捜査・裁判の問題点の多くをすでに佐野氏が指摘していたのは事実で、もちろんその功績までが否定されるべきではない。しかし、それにしても……ということ。