「助けてくれ。わたしのせいでこの男が死んでしまう」

現時点で私はこの事件について現地の詳細な報道をチェックしておらず、それゆえ以下に書くことはこの事件についてであるというよりも、上記の記事における記述についてのものである、ということをあらかじめお断りしておく。
この「不起訴」の決定を支持するツイートを私のツイッターの TL で(ということはつまり、私が普段肯定的に評価している発言者のツイートで)複数みかけた。私としても、この決定を批判する積極的な理由などなに一つもちあわせてはいない。ただ、私がこの記事を読んで最も印象に残ったのは不起訴の決定を伝える箇所ではなく、次の部分だった(強調は引用者)。

 大陪審では証拠として、この父親が取り乱した様子で警察の緊急通報ダイヤル「911」に電話してきて、殴り倒した男の救助を要請する通話録音が再生された。父親はすすり泣きながら「救急車を呼びたい。この男はわたしの娘をレイプしていたので殴ったんだが…どうしたらいいのか分からない」「助けてくれ。わたしのせいでこの男が死んでしまう。何てことだ。これから病院に連れて行こうと思う」などと訴えたが、うろたえるあまり現場の住所を伝えることもできなかったという。

人によってはこの父親を、「娘を守ろうとした英雄」と評するのかもしれないが、それはむしろ、目の前で死につつある現行犯の犯罪者の生命に対して目一杯心を配ろうとしたこの男性への侮辱ではないだろうか。特段の状況(犯人を殺さずとも犯行を止めさせることが極めて容易であったことを示すような)がない限り、私もこの父親が死ぬまで悔恨に苛まれることを望んだりはしないが、死にゆく犯罪者のためにうろたえたこの男性には最大限の敬意を払いたいと思う*1。死刑制度に反対している人間ならば、そうしてしかるべきだ、とも。たとえ5歳の少女をレイプするような人間であっても、(犯行を止めるために必要不可欠であるなら別だが)殺されるべきではない、と考えるのでない限り死刑は廃止できない。まして、「5歳の少女をレイプするような奴は彼女の父親に殺されても当然だ」と思うなら、われわれは死刑に反対するための最も根本的な前提を失ってしまうことになる。
このニュースが印象的だったのは、その少し前にたまたま、池袋でホテトル嬢が客を刺殺した事件(1987年)の判決に言及するツイートをしていたからだ。一昨年のエントリでこの判決を評した際、私は「このケースを過剰防衛とした判断それ自体が直ちに不当であるとは言えない」という但し書きをつけておいた。悪名高い高裁判決の「被告人の性的自由及び身体の自由に対する侵害の程度については、これを一般の婦女子に対する場合と同列に論じることはできず、相当に滅殺して考慮せざるをえない」というロジックについては、どれほど罵倒を積み重ねても足りないほどである。ただし、この判決を批判する際に、もし「ナイフを突きつけて性的暴力を行使するような男は殺されても自業自得である」という発想がちらりとでも頭をよぎるなら――もちろん、私の頭をよぎる考えでもあるのだが――、それは(少なくとも保守派にとっては)「売春婦なら常人よりも性的・身体的自由への侵害を甘受すべき」という発想と同型であることを自覚すべきであろう。

 (……)弟が話してくれたことがある。わが街をドイツ軍の捕虜の列が通って行った時のことだ。弟は他の少年たちと一緒に捕虜をパチンコで撃ったんだ。それを見た母は弟に平手打ちを食らわせた。捕虜はヒットラーが最後の兵力としてとりたてた、年端もいかない少年兵たちだった。弟は七歳だったが、母がこのドイツ兵たちを見て泣いていたのを覚えているんだ。『あんたたちみたいな子供を戦争に出すなんて、おっかさんの眼がつぶれればいい』(……)
(スヴェトラーナ・アレクシェーヴィチ、『戦争は女の顔をしていない』、群像社、112ページ)

*1:したがって、もし大陪審の判断が、犯罪者の生命に対するこの父親の敬意を重視したものであるのなら、その判断はよりいっそう尊重されるべきだろう。