嫌いな言葉:言葉狩り


少し前のニュースだが。

この朝日の記事につけたブクマで私は「この手の話題が出ると必ず現われる「言葉狩り」云々の思考停止っぷりにはうんざりする」とコメントした(現時点で117ついているブクマの中に、私のものを除いて4回「言葉狩り」が登場している)。
もちろん、新バージョンの出版を批判する根拠はいくつも考えることができるだろうし、新バージョンを出すとしてNワードを全て "slave" と置き換えるという選択が妥当なのかどうかを問題にすることもできるだろう。しかしオリジナル版の出版を禁止し図書館からも回収するというのであればはなしは別になってくるが、選択肢を増やす出版を批判するのにはそれ相応の強い根拠が必要になるはずである。月並みな議論としては「オリジナル版に“現代では差別語とされる表現が含まれますが、著者の意図を尊重して……”云々の但し書きをつければよい」とか「教材として使うなら教師が歴史的コンテクストをきちんと解説すればよい」というものがある。しかしそれが新バージョンに「オリジナル版では差別語が用いられており」云々の但し書きをつけるとか、新バージョンを教材として用いる際に教師がオリジナルの表現とその歴史的コンテクストについてきちんと解説する、というもう一つの選択肢と比べてどの程度優れているのかがきちんと論じられねばならないはずだ。そしてその利点が、たまたまオリジナル版に触れてしまったアフリカ系アメリカ人の読者(特に子ども)やあまり優秀でない教師によって教材としてオリジナル版を与えられる生徒たちに及ぼす影響を放置する代償として十分なものであることが示されねばなるまい。日本に住んで日本語を話すこの社会のマジョリティは、その読書体験において自らのアイデンティティを揺るがすような差別表現に出会うことなど滅多にないのであって、そういう立場にあるものが軽々に「言葉狩り」などと言うべきではないのである。


先の記事では新版を「無菌化」と批判したという NYタイムズの記事は特定されていないが、多分これではないだろうか。

この記事中に用いられている "sanitize" が「無菌化」と訳されているのだと思われる。もしこの推定が正しいなら、この記事の書き手は Michico Kakutani という日系アメリカ人女性であり、二重の意味で差別語を投げかけられうる立場にいる人物である。したがって彼女が新バージョンを「無菌化」と批判する時、お気楽な「言葉狩り」批判が決して持ち得ない重みを持つことは否定できない。しかし成功したマイノリティの発言をマジョリティが搾取するのは最悪だ*1
NYタイムズはこの問題を "Room for Debate" というコーナーでとりあげており、11名の見解が紹介されている。数としては少ない新バージョン擁護論の一つ、Paul Butler の "Why Read That Book?" は次のように始まっている。

My freshman year at Yale I had a white roommate whose favorite song was “Rock n Roll Nigger” by Patti Smith. He played it all the time. I liked my roommate, a liberal Jew from Brooklyn, but I hated when he played that song. I never complained. I didn’t want to seem like the overly sensitive black dude who doesn’t get the joke. Now I think I should have asked him not to play that song around me and, if he persisted, thrown the record in the garbage can.

彼はなぜ文句を言えなかったのか? 「ジョークのわからない、神経過敏の黒人と思われたくなかった」からだ。これは「言葉狩り」ではないのだろうか? 石原の「ばばあ」発言に対して訴訟を起こした人々を嘲笑するといったかたちで、マジョリティは常にマイノリティに沈黙への圧力をかけているのである。カクタニ氏の記事はラッパーがNワードを多用していることを指摘し、新バージョン批判の根拠の一つとしている。しかしバトラー氏は言う。

Yale was wonderfully diverse, but sometimes my African-American friends and I needed a black space. We might listen to Richard Pryor’s hilarious album “That Nigger’s Crazy.” Or on weekends take the short train ride to New York City, where hip-hop was being born, and the word “nigger” gaining an artistic legitimacy it hadn’t had since ... well, since the days of Mark Twain.

アフリカ系アメリカ人のコミュニティで、あるいはアフリカ系アメリカ人を主な担い手とするサブカルチャーにおいてNワードが用いられているということは、それが「古典」の名の下により一般的な文脈(あるいは初等、中等教育という文脈)において用いられてもよいということを意味しない。


もう一つ、NYタイムズが「無菌化」と批判するのはよいとして、それを安易に日本の文脈に持ち込むわけにはいかない理由がある。アメリカで公人がNワードを公言したらどういうことになるだろうか? NYタイムズは「○○州知事は記者会見で差別的な発言を行いました。各方面から批判を浴びています」といった“客観報道”をやっておしまいにするだろうか? ヘイトスピーチが公的な領域に入り込んできた時にそれと断固闘う“免疫”が機能している社会であれば、無菌化を批判することもできよう。そうした“免疫システム”がはたらいていない社会で子どもたちを“細菌”にさらすなら、その結果は……。

*1:論旨から逸れるので註のかたちで付言しておく。「無菌化」というメタファーに乗っかるとするなら、われわれは「過剰な衛生志向」の害悪を認識しうると同時に、ある程度の衛生状態を維持することはわれわれのQOLにとって、場合によってはわれわれの生存にとって不可欠である、ということも認識せざるを得ないはずである。Nワードの排除が「どの程度か?」ということは議論しうるにせよ。