気になる用語法

 法曹関係者からは批判や疑問の声があがった。

 強制起訴の導入など検察審査会法改正の議論にかかわった国学院大学法科大学院の四宮啓教授は「首相が刑事被告人になれば日本の外交・内政への影響が大きい。有罪が確定するまで『推定無罪』というのは刑事裁判としては当然の原理だが、政治には別の倫理があるのではないか」。審査会のあり方に関する小沢氏の発言に対しては「プロの判断が常に正しいとは限らず、国民感覚とずれることもある。普段は選挙という民意を重視する小沢さんの姿勢と矛盾する」と述べた。


 また、ある法務省幹部は「『素人』発言はまずかった。第三者が指摘するならまだしも、俎上(そじょう)にのっている当事者が言うのはおかしい」。市民の感覚が司法に採り入れられたばかりで見直しの議論をするのは「時期尚早だ」と語った。


 ただ、法務・検察内部には、市民感覚被害者感情が重視され過ぎ別の立場からの意見が言いにくい現状を疑問視する声もある。「法廷に出される被告の負担は大きい。その気持ちがあって小沢氏も発言したのだろう」。この幹部は一定の理解も示した。


 審査会の法改正にかかわった高井康行弁護士は「『素人の意見だからダメ』という言い方は審査会の存在意義を否定することになり、不見識と言わざるを得ない」と話す。その一方で、審査会の議決にどの程度の力を持たせるかについては「議論の余地があるのは事実」と指摘する。「小沢さんは言葉足らずで、論点を踏まえたうえで発言したのかどうかはわからない。どこに問題があると考えるのか。きちんとした説明が必要だ」

市民の「感覚」というのは裁判員裁判について語る際にも繰り返し使われるタームなんだけど(調べてみたらこのブログでも、「 」付きでではあるが2度使っていた)、ちょっとひっかかるんだよな。「感覚」でええのんか? と。「市民感覚被害者感情が重視され過ぎ別の立場からの意見が言いにくい現状」という場合の「市民感情」なら違和感がないんだけど。
「感覚」と対になるのは(専門家の)「知識」とか「論理」といったところだろうか。しかし市民にももちろん「知識」や「論理」はあるわけで、求められているのはそうしたものではないのだろうか。まあ単なるクリーシェで考えなしに「感覚」って言ってるだけかもしらんが、「感覚」では『素人の意見だからダメ』論に対抗できないのではないか?

 検察官「5時50分には、田中さんは両眼を見開き、白目がむき出しになるなど、映画『エクソシスト』に出てくる女の子のような状態になりました。これを『エクソシストの状態』と名付けます」
(……)
 検察官「その後、田中さんは一点を見つめて『うーっ』と言ったりして、映画『呪怨(じゅおん)』に出てくる男の子のような状態になりました。これを『呪怨の状態』と呼びます」
(http://sankei.jp.msn.com/affairs/trial/100903/trl1009031531004-n4.htm)

これが市民「感覚」への訴えかけなんだとすると、そんな「感覚」なんて裁判に持ち込んでほしくないな。死者の尊厳という観点からも疑問だ。