かつてあった「政治利用」
〔一九八二年〕六月一日、来日中の中国の趙紫陽首相が、目白の田中邸を訪問。中国要人の田中邸訪問は別に珍しくもないが、この訪問には、思いがけない裏話があったことを、ある外務省幹部が後に暴露する(八三年九月二五日付『毎日新聞』)。「趙紫陽首相来日のとき、中国側の面会希望リストを見て驚いた。恒例の田中邸訪問がないからだ。しかし、来賓の日程は先方の意向を最優先する。そこで田中邸抜きの日程案を作ったところ、上から“どうしても訪問してもらえ”という指示がきた。中国側に頼み込んで、福田元首相とも会うというワンセットで、やっと承知してもらった。屈辱的な経験だった」。中国も田中離れを開始したのである。
(立花隆、『ロッキード事件とその時代 4 1982年1月―1983年12月』、朝日文庫、140ページ)
〔判決直前のマスコミ報道において〕こんなエピソードも暴露された。中国の要人が来日すると、田中邸を訪問することが恒例のようになっていた。田川誠一新自由クラブ代表が、駐日中国大使に会ったときに、それが国民の反発を招き、日中友好の妨げになっていると指摘すると、中国大使は、それはこちらの希望ではなく、田中側の希望でそうなっているのだと釈明した。初期は中国側の希望だったが、昨年あたりから、中国は田中に対する見方を変えて、敬して遠ざけるようにしているのに、田中側が離れようとしないという。
(同書、425ページ)
自民党員でもない刑事被告人が、自民党に対する影響力を確保し続けるために中国要人との会見を政治利用していた例。それを自力ではどうにもできなかったのが自由民主党(時の内閣は「直角」と評された鈴木善幸内閣、一審判決時は「田中曽根」内閣。)。