ほら誤読じゃん

http://d.hatena.ne.jp/NaokiTakahashi/20091217/p1


一番ひどい誤読はこれかな。

つまり、当然表現の自由は原則として保護されるべきであるが、個別的には保護されないものがある。陵辱ゲームが問題になっているのはその個別性のゆえんであって、

はい。明確に、陵辱ゲームは表現の自由で保護されない例外であるという主張です。

「問題になっている」を「規制すべきである」「表現の自由として保護されない」と誤読。「問題になっている」というのは端的な事実(だった)じゃん。「個別的には保護されないものがある」から個別的には(保護されるかどうかを)問題にすることは当然ありうるし、法規制すべきかどうかはその問題提起を受けた議論を経て決まること。「表現の自由キリッ」は「個別的には(表現の自由として保護されるかどうかを)問題にしうる」こと自体を否定しているわけ。
そもそも、この引用、その前にある「ただし、ぼくはだから陵辱ゲームも規制すべきであるとは思いません」を無視しているのであって、あるいは「誤読」以前の問題かも。目の前にある文章が目に入らない、という。

つまり、そのような問題表現の自由は差別反対運動への参加に紐づけられていて、そのような参加をした場合に限り、法規制の必要性を減らすことができるだけなんだよね(誰がどういう裁量で減らすんだろう?)、必要性があるということは前提になっている。これは法規制が必要だという議論です。

これもひどい。やはり「誤読」以前の問題として「そのような試みがなされることだけが、「ヘイト・スピーチに対する法規制」のような強権発動の必要性を減らすことができます」の後に「あるいは、(強権発動をしない場合には)「表現の自由」のための生け贄を減らすことができます」とあるのを無視。どこが「必要性があるということは前提」なんだよ。第二に、現実に「法規制の必要性」があると主張する人間は存在していて、問題はそういう論者にどう向き合うかということ。(現時点で)法規制されていない表現行為はこれっぽっちも他者の尊厳を傷つけることなどない、というトホホな前提に立つのでもない限り(あるいは別に法規制されたっていいや、と思うのでない限り)「法規制の必要性」があるという主張には向き合う必要がある。「できる限り多くの反差別的実践がなされること」はまさに「法規制の必要性」があるという主張に向き合う一つの仕方ということ。
だいたい、なにごとかを(特に新たな立法なり法改正を)やるかどうかは「必要性」の有無だけで決まることじゃないだろ。必要性はあってもいま提案されている方法では弊害が大きすぎる、というのであれば他の方法が模索されることになる。弊害の方を仮に与件とすれば、「必要性」が減じれば減じるほど実際に行われにくくなる……って、そんなにわかりにくいはなしか?

それこそ対抗言論の整備だし(後略)

はあ? それ(だけとは限らないがそれを含む)をやろうと言ったら「紐をつけるな!」と言われた、というはなしですが。