「ネタ」とか「デマ」とかをめぐって

所信表明演説の際のヤジに関して松浦参院議員(民主)が Twitter で発言した件は管見のかぎりではマスメディアによるフォローはないようで、私が見た動画では問題のヤジを聞き取れなかったのだが、どうやら松浦議員の勘違いのようだ(マスメディアがニュース性を認めていないわけなので)。「そんなものどこにでもいるよ!」というヤジのタイミングとして「息子さんが職に就けず、自らの命を断つしか道がなかった、その悲しみを、そのおばあさんは私に対して切々と訴えられたのです」の後よりも「私の手を離そうとしない、1人のおばあさんがいらっしゃいました」の後の方が合理的に解釈できるというのもあるが、その後の松浦議員の補足は勘違いであったことを前提しているように思われる。

鳩山首相の青森で年配の女性が手を放さなかったというエピソードは、NHKの「衆院選特集」で放送され、朝日新聞にも取り上げられた有名な話なのですね。たぶん国会議員であれば多くの方が知っていると思います。その話にヤジを飛ばしたことに私は驚いたわけです。

「たぶん国会議員であれば多くの方が知っていると思います」はヤジを飛ばしたまさにその議員が承知していたことを保証しないし、鳩山代表の遊説に関する報道を自民党の候補者が民主党の候補者と同程度に熱心にフォローしていたと想定するのは無理があろう。「私の手を離そうとしない、1人のおばあさん」から直ちに「息子さんが職に就けず、自らの命を断つしか道がなかった」ことを思いだした松浦議員がヤジのタイミングを間違えたとしても心理学的には無理のないことといえようが、それを言うなら仮に野次を飛ばした議員がこのエピソードについての報道を見知っていたとして、「1人のおばあさんがいらっしゃいました」という一節から直ちにそれを想起できなかったからといって責められるものでもないだろう。脊髄反射っぽいヤジだし。


さて、「面白くて気分よく笑えるのがネタで、ただムカムカして不快にさせられるのがデマ」と公言するほどにご自分の感性に揺るぎない自信を持っている人を見かけて驚いていたら、「ネタ」について考える題材としてうってつけの事例が起きた。
http://d.hatena.ne.jp/Elekt_ra/20091026/1256555556
http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/Elekt_ra/20091026/1256555556
「ネタ」も「デマ」も虚偽情報であるという点は同じだが、前者は「これは虚偽です」というメタメッセージを伴っている点で後者と区別される。もっとも、このメタメッセージはあからさますぎては興ざめであるし、密やかすぎれば読者に伝わりにくいが故に、たびたび誤解が生じることになる。Elekt_ra さんの場合、「Fabrication」というタグとエントリ末での元ネタへのリンクによって、興ざめになるリスクをおかしてあえてメタメッセージを明示的にしているのだが、それでもガチで受け取っちゃった人が出てきたのだから難しい。本や雑誌の場合には書店での配置とか図書館での分類がすでにメタメッセージとして機能するわけだが、ブログのタグにはそこまでの効果はないようである。
なにが「これは虚偽である」というメタメッセージとして機能するかを決定する文脈を高度に共有することは(特にだれがどういう経路で読みにくるかを予測し難いネットでは)困難で、「ネタにマジレス」される可能性を100%排除することはできない。サイト全体がネタに特化している bogusnews のような場合でさえ、初めて読むエントリ次第ではネタであることを認識しそこなうことはあるだろう。だが、ネタがネタとして機能するために共有されねばならない文脈はこれだけではない。もう一つ、なにが「面白くて気分よく笑える」*1ものか、に関する文脈が共有されていなければならない。この点を明らかにしているのがこのケースである。
http://b.hatena.ne.jp/entry/tsushima.2ch.net/test/read.cgi/news/1256790952/-100
映像の作り手と、作り手が想定した視聴者(の多く)にとっては「面白くて気分よく笑える」ネタなのだろうが、「自作自演ならネタってことで一件落着」というわけにはいかない。これが「ネタ」として通用してしまう文脈こそが問題にされねばならないのだ。

*1:さらに言えば「気分よく」笑えるものだけがネタというわけではない。後述する件が示す通り、むしろ作り手の側が「気分よく」笑えると思っているネタほど問題をはらむ可能性も高くなると考える余地もある。