『足利事件 冤罪を証明した一冊のこの本』解説

buyobuyoさんのエントリで『足利事件 冤罪を証明した一冊のこの本』(小林篤、講談社文庫)の文庫版解説をあずまんが書いているということを知って、押っ取り刀で書店へ。最初に行った書店(結構大きめの)で在庫切れだったのでちょっと遅れたけれども本日読了。解説まで含めて。

 さて、ぼくは決してノンフィクションのよい読者ではない。職業柄小説や思想書はよく読むが、国内の犯罪を扱ったルポルタージュとなると、半年に一冊も読めばいいほうだ。
(520-521頁)

そりゃあそうでしょう。なにしろ「『公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない』と随所で主張している」ところの「ポストモダニズム系リベラルの理論家」であるわけですから。

 (・・・)小林氏はそこで丹念な取材を積み重ねることで、菅家氏の生活や家族構成、職場、経歴、発言そのほか、つまりは彼の人生そのものが、周囲の視線にとっていかに「怪しい」ものに見えたのか、その状況を残酷なまでに炙り出していく。(・・・)
(521頁)

さすが「ノンフィクションのよい読者ではない」と自認するだけあって、見事なまでに的外れな解説です。『足利事件 冤罪を証明した一冊のこの本』を普通に読んだ読者であれば、警察の捜査や小林氏の取材に対し菅家氏について「怪しい」に類する評価を口にしたのは、事件発生当時の菅家氏の勤め先である幼稚園の園長(およびその息子である理事長)だけと言ってよい*1、ということを容易に理解するでしょう。その園長の証言が紹介されている第6章では元同僚の「立派な人間です」という評価が紹介されている(236頁)のを筆頭に、園児の親から園長の言うような指摘や苦情がなかったこと、菅家氏がよくレンタルしていたのはアダルトものでは「外人のグラマーな女性のもの」だったというレンタルビデオ店店長経営者の妻の証言が紹介されている(236頁)。それだけではなく、園長が捜査員の聞き込みに対して菅家氏が「怪しい」という趣旨の供述をして以降も捜査幹部が「何人も似たようなのがいるわけですよ」という認識だったこと(248頁)、1年にわたる尾行を続けても「パンツも盗らなきゃ、女の子に声かけもしない」「レンタルビデオ屋に行っても、『ロボコップ』とか『寅さん』とか、中学生みたいのを観てた」と捜査員が嘆いていたこと(249頁)も紹介されている。「周囲の視線にとっていかに「怪しい」ものに見えたのか」などという事情があったのなら、警察の目にとまってからなお約1年間も泳がされたなどということはありえない。「怪しいということで唾液検査した奴だけで四〇〇〇人を超えた」(261頁)という状況にもかかわらず本庁から強烈なプレッシャーがかかるなか、たまたま菅家氏が捜査員の目の前でゴミを捨てたことが問題のDNA鑑定につながった(263-264頁)、ということが理解できないのなら、なるほど「ノンフィクションのよい読者ではない」という自己評価は適切だ。

 最後にひとこと。
 本書でも示唆されているとおり、足利事件はおそらくは単独の女児殺人事件ではない。
 (・・・)
 奇しくもぼくはいま、足利事件の犠牲者、マミちゃんと同じ年齢の四歳の娘を抱えている。だから、菅谷氏が釈放され、真犯人が放置され続けている現実が明らかになったことで、近隣住民がいかに深い衝撃を受け、いかに大きな不安に耐えているのか、察するにあまりある。
(524-525頁)

予想していたことではあったが、自称「ポストモダニズム系リベラルの理論家」が「随所で主張している」ところの「公共空間の言論は開かれていて絶対的真実はない」なる主張がいかに下らないか、が明確になった。たとえ「足利事件の犠牲者、マミちゃんと同じ年齢の四歳の娘を抱えて」ていようが胸を張って「絶対的真実はない」「足利事件は連続女児殺人事件を構成するものであるかどうかわからない」「そもそも連続女児殺人事件など存在したとは断言できない」「菅家さんが本当に無実なのか、ネットでの議論は収束しない」と言ってみせるのでなければ、自称「ポストモダニズム系リベラルの理論家」なんてものにはなんの価値も無いことは明白だ。自分の胸が痛まないケースでだけ相対主義を振り回すのはどんな阿呆にもどんな卑怯者にでもできる。

*1:細かいことを言えば、近隣住民が“週末だけ借家に住む不審な中年男”の存在を警察に話したのが端緒ですが、これはなんらかの犯罪との関連を考えさせる事情ではありえても幼女を被害者とするこの事件に特に結びつくような情報ではありません。この注追記。