袴田事件・供述の変遷とその分析 その2

袴田事件の捜査において録取された調書の変遷分析を「犯行当時の着衣」に絞って紹介するシリーズ。
まずこれに関連して、客観的な状況(自白調書以外の証拠によるものをこう称することにする)は次の通り。

  • 袴田死刑囚は現場の消火活動中、パジャマ姿で物干し台にいたこと、その後ずぶぬれのパジャマ姿でいたことが目撃されている。
  • パジャマからは微量の血痕が付着、袴田死刑囚の血液型がB型であるのに対し、警察の行なった鑑定ではA型、AB型、および型不明の血液が付着しているとされた。ただし、付着した血液が微量であるため再鑑定は不可能。
  • また、パジャマには放火に用いられたと思われる釣船用混合油と同じものが付着していたとされる。ただし法廷に提出された証拠によればこの同一性が確認されたのは起訴後の10月20日付鑑定によるのであって、逮捕時点では確認されていない。もっとも、警察は7月4日の家宅捜索で問題のパジャマ他を押収した直後に油が付着しているかどうかの鑑定を嘱託している。
  • 事件直後、袴田死刑囚は左手中指に怪我をしていた。事件から3日後に治療にあたった医師は(傷が化膿していたため)刃物による傷か屋根のトタンで切った(袴田死刑囚の当初の弁明)傷であるかは不明と供述。他方、警察の要請で診断を行なった医師は「トタンで切ったというよりは鋭利なもので切ったものと思われます」としている。
  • 中庭からは雨合羽が発見され、その右ポケットに凶器とされた小刀のさやが入っていた。


この段階で警察は袴田死刑囚がパジャマ姿で犯行に及び、その際左手に怪我を負い、また返り血と油がパジャマに付着したという容疑を抱いたこと、他方これが冤罪であるという観点からは左手の傷やパジャマの血痕、油痕はいずれも消火活動を見物・手伝っている間のものだということ、以上は容易に推察できるだろう。雨合羽はポケットにさやが入っていたため事件と関連があるものと思われたが、これを巡る供述が大きく変遷することについては後に述べる。


さて、上述の通り警察は袴田死刑囚がパジャマ姿で犯行に及んだと考え、また全ての自白調書がその旨を述べているのだが、もう一つ、第一審の公判中である1967年8月31日*1に“発見”された証拠がある。冤罪事件に関心のある人びとにとってはかなりよく知られたことであると思われるが、袴田死刑囚が勤めていた味噌工場のタンクの底から南京袋に入ったズボン、スポーツシャツ、ステテコ、白シャツ、ブリーフの5点が出てきたのである。いずれにも「かなりの血液が付着していて、血液型はA型、B型、AB型の3種があった」(63ページ)。
これらの衣類が発見された時点では、袴田死刑囚はすでに否認に転じていたため、被告人の口からつじつまを合わせる供述は得られなかった。検察は冒頭陳述の訂正を行ない、この5点が犯行当時の着衣であるとした*2。この5点の衣料に関してはズボンのサイズがあわないなどそれ自体としても疑問点があることが指摘されているが、供述の変遷を分析する際にはひとまず無視できる事情であるのでここで指摘するにとどめる。


次回は犯行時の着衣に関する供述がどのように変遷したか、の具体的な紹介を行なう予定。

*1:『自白が無実を証明する』の63ページではこの日付が「事件の翌年の1966年8月31日」と誤って記されている。

*2:第一審判決およびそれを踏襲した二審の判決は、これら5点からパジャマへの着替えのタイミングに関して検察の筋書とは異なる事実認定をしている。冒頭陳述訂正の時点では検察は5点の衣類に混合油が付着していると想定していたのだが、その後結果の出た鑑定では油の付着が認められなかったからである。検察は放火後に着替えをした−−その際パジャマに血液と油が付着した−−と主張していたのだが、判決では殺人と放火の間に着替えを行なったものとされた。