『日本の殺人』


著者の河合氏が「丸激」に出演した際、“もう書き上がってるんだけど裁判員制度の開始まで出してもらえない”(大意)と予告していた本。裁判員候補に選ばれたひとにはぜひとも読んでほしい。特に、例えば「統計的な数の上で、日本の殺人事件のもっとも典型的なものは、心中である」(16ページ)といった事実をご存じなかった場合。
本書が解き明かす「日本の殺人」の実態については部分的にはこれまで何度か言及してきたことでもあり、また刊行されて間もないことでもあり、ここで中途半端にご紹介するのはやめて、まずは非常に興味深かった一節をば。刑事政策に現場で携わる人々、「とりわけ刑務官」について、「国民に知られることもなく、献身し続けることが、どうしてできるのであろうか」という問いを提起して、次のように記している。

 実は、ここには、見事な仕組みがある。それは、天皇制である。皇室の宮様が、刑務官たちを称え褒章を与えればよい。天皇家は意味づけとしては国民の代表である。そして、この方法では、具体的な国民は依然として何も知らないでもよい。知らないで安心してもらう仕組みは、見事にできているわけである。これは、昨日今日にできたものではない。(210ページ)

「見事な仕組み」と評したくなるのは理解できるのだが、やはりこれは「天皇制と差別」という問題系とつながっているように思えてならない。なお、著者は「この仕組みは限界に来ている」(同所)とも指摘していて、べつにこの仕組みを大切にしようと主張しているわけではない。
また死刑制度については「死刑賛成ではない」としつつ「死刑廃止にも明確に反対」と主張している(228ページ)。理由は「立法段階で、どんな犯人でも死刑にしないと決めてしまうということは、司法判断をしないということ」だから。「殺人犯を、どういう生い立ちで、いかなる動機で事件を起こし、その後の反省具合はどうか、どこから見ても死刑やむなしとなった場合のみ、死刑にできるとしておくべき」としつつ「制度としては、あくまで死刑判決は可能にしておかねばならない」、というのである(228-229ページ)。他の箇所の記述を参考に著者の意を忖度するなら「神ならぬ人間には、あらかじめ“いかなる犯罪者も死刑に価しない”と決めてしまうことはできない」ということになるだろうか。同じく神ならぬ人間としての謙虚さが判決にも最大限反映されるという条件付きであれば、これはこれで説得力のある議論ではあろうと思う。ただし、上の引用文中に「いかなる動機で事件を起こし、その後の反省具合はどうか」とある点が、結局のところ著者の主張に同意できない私なりの理由になる。一方で「動機」や「反省具合」が量刑に影響するのは無理もないはなしではあるわけだが、「動機」にしても「反省具合」にしても、あくまで「被告人」という立場におかれた犯人について裁判のなかで判断されるわけである。しかし逮捕〜取調べ〜裁判といったプロセスが常に「動機」の解明や「反省」に適した時間だとは思えない。もしわれわれがほんとうに殺人事件の「動機」の解明が重要だと思うなら、いかなる殺人犯であれ死刑にせず長い時間をかけて犯人に語らせるしかないだろう*1。そうでなければわれわれは裁判で認定される(ということは、要するに検察官の認知枠組みに大きく制約された)カッコつきの「動機」で満足せざるを得ないだろう。
もう一点、取り調べ過程の可視化について。

(・・・)ビデオ撮影されてしまえば、踏み込んだ話はできない。責任逃れのための妙案でしかなく、刑事さんのやりがいを奪う愚策であると私は思う。(186ページ)

これについては「この仕組みは限界に来ている」(上述)という認識との整合性はどうなんだ? と言わざるを得ない。いわゆる「信頼関係」に基づく取調べ云々・・・という論であるわけだが、これもまた「限界に来ている」仕組みのひとつではないのか。すでに小倉秀夫さんが指摘されていることだが、取調べの全過程が記録されていない現状でも、捜査側が「これは公表した方が公判において有利になる」と判断したことはバンバン公表されうる(それもビデオという客観的データによってではなく、取り調べる側の記録に基づいて)わけで、被疑者が「刑事さんはここだけの話だ、と言ってくれているから話してしまおう」と思って話したことがリークされたり公判で証拠とされていないなどとはとても言い切れまい。密室でのみ達成可能な「やりがい」を維持することより、可視化されても達成できる「やりがい」を提示することの方が重要だろう。


追記:ブクマコメントより。

horai551 日本, 死刑 「死刑廃止にも明確に反対」と言いながら「死刑賛成ではない」って…

sakuranta 書評, 警察, 世相 著者(河合氏)の姿勢がよくわからん。買うか。別に「死刑」がなくたって「司法判断」は可能なのは自明の理だと思うんだけど。フランスに行って「司法判断を放棄してるよ」って言って来たらどうかな?

いや、私は死刑廃止派なのでお気持ちはよくわかりますが。まず「フランス」との関連で一点著者を弁護しておくと、著者は「自称死刑廃止国」のフランスで「逮捕時に犯人が警察官によって多数射殺されている」ことを指摘しています。犯罪そのもののあり方も日仏で違うので単純な比較はできないにせよ、司法システム全体を比較すべきであるというのは一理あろうかと思います。
死刑を廃止すべき理由としてなにを重視するかによって、著者の死刑に対する態度の評価も変わってくると思います。例えば「冤罪だった場合に取り返しがつかない」という理由を重視するなら(そしてこの理由は、飯塚事件を想起するときに無視し難い重みをもっているわけですが)、著者の議論はおよそ考慮に価しないでしょう。しかし「およそ人間の想像力の限界を超えるような犯罪が起きた場合に、こいつだけは死刑にしたいという思いを抱かずにいられるか?」という問いが疑似問題でないことも確かだろうと思います。ルワンダでの大虐殺の責任者にせよポル・ポト派の元幹部にせよ死刑になる可能性はないわけで、「たとえどれほどの大虐殺の責任者であっても死刑にしない」という立場に現にコミットしている司法制度はあるし、ということはそういうコミットメントが実際に可能だということでもありますし、かつ私自身もそれを支持しているわけですが、それがある「断念」を伴っていることもまた事実ではないかと思います。死刑廃止論を支持するときになにが「断念」されているのかを想起することは決して意味のないことではないだろう、と。

*1:死刑にしなければ、例えば以下のエントリで紹介したような書籍が可能になるわけだ。http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20070818/p2