イエスはなんと言ったか


http://d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20090525/p2
↑でとりあげた七平トリックに関連して。ちょちょんまげさんの「山本七平氏の「弁慶がな、ぎなた」読み No.3」で論じられている“swear at と swear”を区別する論法について。
実はマタイ福音書にある「一切誓うな」というイエスの発言をめぐってあれこれと理屈をこねたのは七平センセだけではない。

 イエスは言った、「一切誓うな」(マタイ五・三三)。
 これははっきりしていて、疑問をさしはさむ余地はない。一切誓うな、というのだから一切誓うな、という意味であって、それ以上に説明する必要は全然ない。
 それにもかかわらず、キリスト教社会はいろいろな場面で「誓う」ことを強制してきた。どちらが正しいか、と問う以前に、まず確かなこととして確認すべきは、この点でも、イエスキリスト教は逆の方向を向いている、という事実である。(・・・)
田川建三、『宗教とは何か 下 マタイ福音書によせて』改訂増補版、洋泉社新書MC、92ページ)

「イエスキリスト教は逆の方向を向いている」ことを認めたくない人間は、したがってなんらかのかたちでつじつまを合わせようとする。聖書学者も例外ではない。ただし、七平センセイのように英訳に依拠するのではなく、ギリシア語(コイネー)の原文に依拠して(佐伯真光氏の方はもちろんギリシア語原文に言及している)。では、どのようにして?

(・・・)つまり、ギリシャ語においても、それを翻訳してきたヨーロッパ語の多くにおいても、「誓い」について二つの概念を区別している。宣誓(法廷などでの宣誓、また宗教的な意味での神に対する信仰の誓い。ギリシャ語の orkos, 英語なら oath)と、神かけて約束するという意味での誓い(ギリシャ語 euchê, 英語なら vow)である。
(同書、96ページ)

あれあれ? 七平センセイも棄てたものではないのか? しか〜し、よくよく見るとこれは swear と swear at の区別とは違うはなしですな。しかもこの後があるんです。

この両概念はこのように標準的な古典ギリシャ語では区別されることになっているのだが、いわゆるヘレニズム的ギリシャ語、特に東方の民衆の崩れたギリシャ語では、混用して用いられる(S・リーバーマンの論文、W・D・デイヴィスによる)。
(同書、96-97ページ)

これだけならコイネーに関する見解の違いですますことができるかもしれない。しか〜し・・・。

 註。こういった説は、言語的にもひどく無理をしている。つまり、ここの原文は orkos という単語を用いているのであって、euchê を用いているわけではない(なお動詞の「誓う」の方はここではもう一つ別の omnymi という語を用いているが、これは普通は orkos を目的語にして「誓いを誓う」という意味である)。そうすると、まず、これはヘレニズム的ギリシャ語だから、orkos も euchê も区別なしに用いているのだろう、と前提して、その上で、実はこの場合の orkos は実は euchê の意味であって、ここでは orkos ではなく狭義の euchê をやめろと言っているだけだ、と推測することになる。そんな何重にも無理をした解説をほどこしなさるな。
(同書、97-98ページ)

ちょっと補足しておくと、ギリシア語原文では佐伯氏が「メー・オモサイ・ホロース」とカナ書きしているように "ὀμόσαι" すなわち omosai という語が使われているが、これが omnymi の活用形ということ。要するに、もしあえて厳密に区別するならば「法廷などでの宣誓、また宗教的な意味での神に対する信仰の誓い」を意味する動詞が用いられているのだから、やっぱり七平説は成り立たないのである。